日本語能力があるかないかで人生どうなるかって話

14歳の夏と言えば、それまでどういう関係かはわからずに、だがずっと小さい頃から自分のことを可愛がってくれていた人たちが、実は兄弟だったということを知る。
日本に生まれた99.9%の人が経験するであろう、よくあることだ。
文章能力が認められた日
「あんたら兄弟だったの!?」というイベントを経験した。
だから、というわけでもなかったが、この年に書いた作文で日本商工会議所のつまらない賞をもらったことがあった。提出した作文の題名は「閃光のように」。
これまた日本人の99.9%が読んだことがあるであろう人気漫画「ドラゴンボール」ではなく、「ドラゴンクエスト-ダイの大冒険-」の14巻か37巻辺りに、全く同じ題名の回が存在する。
その14巻か37巻を、小さな頃から穴が開くほどに読んでいた者にとって、この回に書かれていることをそっくりそのままに、あるいは所々文面を変えて作文にすることは、相対性理論を暗記するのと同じくらい簡単だった。
そんなこんなで賞を受賞できたのだから、やはりプロの漫画家は凄いということだ。ダイの大冒険の場合は原作者が存在するから、その原作者の文章能力が認められたというわけだ。今更だが、原作者におめでとうと言いたい。
日本語能力が中途半端な場合
「中途半端」という言葉の良し悪しはとりあえずポケットに閉まっておくとして。
母国語が日本語ではない人が、勉強やら留学やら趣味やら、そういったなんらかの方法で知識として得た日本語は、日本語を母国語とする人にとって案外わかりやすい。
理由は「単純」だから。
「単純」という言葉の良し悪しはとりあえず飲み込んでもらうとして、「単純」であるが故に「明快」で「わかりやすい」というのが、言葉のやりとりの上では必要ということを以前学ばせてもらった。
単純でわかりやすい
例えるなら、日本語の「恋」と「愛」は、感情の種類としては類似しているが持っている意味そのものは全く違う。しかしこれを英語で表現すると「Love」の一択になる。
14歳の夏に読んだ恋愛漫画の背表紙に、そんなことが書かれていた。初めての彼女ができる数ヶ月前に読んだこの漫画は、初めての恋愛には何の役にも立たなかった。それでも今こうして、ブログを書くのに一役買っているのだから、人生何があるかわからない。
話を戻して、何が言いたいかというと「日本語は単純であればあるほどわかりやすい」、ということ。
単純=中途半端とはまた違うけれど、先の「日本語を母国語としない人が学んだ日本語」が、「日本語を母国語とする人の日本語」よりもわかりやすいケースは多々ある。
特に文章でのやりとりの上では、それが顕著だ。
チャットツール上でのやりとり
凄い人たちとやりとりしてるんだね、という雰囲気を醸し出したいから書くわけではない。シリコンバレーのエンジニアたちとのやりとりに、「Slack」というチャットツールを使っていた。
あちらの方たちの日本語といったら「望む修正早い(3行にわけて)」というように、非常にシンプルかつスマートでわかりやすかった。
「申し訳ございませんが、〇月△日までに仕上げて頂けますでしょうか。」なんて支離滅裂で意味不明で五里霧中な日本語とは大層違うということだ。
生きるという点で
早速本題に入るが、「日本語能力があるかないかで人生どうなるか」ってテーマで101回議論したとして、結論はいつも1つに集約される。その結論とはもちろん「プロポーズの言葉がうまく伝えられるかどうか」というものだ。
「僕は死にましぇーん!」
こんなことを男性から言われた女性が、プロポーズを受け入れるとしたら、それはフィクションだ。そもそも101回ものプロポーズをする前に、日本語能力をどうにかしろと言いたくなる。
ちなみに、どうして今回このような記事を書くに至ったのかということを説明すると、仕事でリライトをする機会に恵まれ、類まれな原稿に目を通すことが出来たことで、自分の日本語能力というものに疑問を抱いたからだ。
自分の能力を、あるいは自分という存在そのものを、信頼してくれる人がいるというのは嬉しいことだ。そういったことが、生きるということに繋がる。
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